No.026【対話 日本の詩の原理】『「凶区」と鈴木志郎康の時代―渡辺武信/天沢退二郎/菅谷規矩雄』(一 全二回)池上晴之×鶴山裕司【H】
池上 今回は鶴山さんのご提案で、同人詩誌「 凶区 ( きょうく ) 」の詩人たちを取り上げることになりました。しかし「凶区」と言っても、まず一般の読者は知らないと思います。ぼくも名前だけは知っていますが、実際の雑誌は読んだことがないですし、誰がメンバーだったのかと言われると正直うろ覚えです。ぼくが現代詩を読み始めた一九七七年頃でも、だいぶ昔の詩誌だという印象がありました。というわけで、まず「凶区」はどんな特徴の詩誌で、どういう詩人たちが所属していたのかをお話していただけますか。
鶴山 「凶区」は物置を探したら四冊出てきました。後期の号ばかりですけど。
池上 これが「凶区」ですか、初めて見た。鶴山さん、よく持っているなぁ。この19号の表紙は時代を感じさせるけど、戦後詩の同人誌とは全然違いますね。「荒地」なんか誌名が大きくレイアウトされているだけだものね(笑)。あと「演劇特集」とか普通の雑誌みたいに特集が組まれている号もあるんですね。ぼく、今回の対談に備えて渡辺 武信 ( たけのぶ ) の『移動祝祭日 『凶区』へ、そして『凶区』から』(二〇一〇年)というメモワールというか、かなり詳細な資料でもある分厚い本を初めてざっと読んだのですけれど、「凶区」には前身になった同人誌があるんですよね。
鶴山 中心は東大と早稲田大学の詩人たちです。まず東大系をおさらいすると、昭和三十三年(一九五八年)に 天沢退二郎 ( あまざわたいじろう ) と渡辺武信さんらが「赤門詩人」という同人誌を創刊した。その名のとおり東大の学生たちの学内雑誌です。ただ「赤門詩人」は原稿が集まらず八号で行き詰まってしまった。そこで天沢と渡辺さんだけで臨時の小冊子を出すことにした。それが「暴走」で三十五年(六〇年)創刊です。「赤門詩人」からの〝暴走〟ですね。六〇年安保最盛期ですから天沢、渡辺以外の同人たちは詩どころではなくなったんでしょうね。
早稲田系では秋本潔、彦坂紹男、藤田治さんが「舟唄」や「パテ」という同人誌を出していた。また高校時代からの友人でともに早稲田に進学した高野民雄、鈴木 志郎康 ( しろうやす ) さんが月刊で「青鰐」を刊行していました。全員同世代で二十代初めに第一詩集を出した詩人が多いですから出版記念パーティなどで顔を合わせる機会があった。そこから同世代詩人を集約した同人誌を出そうという機運が生まれ、天沢、渡辺、秋本、彦坂、高野の五人で昭和三十六年(一九六一年)六月に「×(バッテン)」を創刊した。今まで自分たちがやってきた同人誌を否定するという意味で「×=バッテン」という誌名にしたようです。
ただ「×」創刊後も「暴走」は続いていました。第八号から 菅谷規矩雄 ( すがやきくお ) さんが参加しています。「×」も同様で第四号から藤田、鈴木、山本道子さんが参加して八人になった。「×」「暴走」「青鰐」の詩人たちは複数の詩誌に参加して旺盛に詩を書いていたわけですがそれを最終統合しようということになった。それが「凶区」で昭和三十九年(一九六四年)四月創刊です。創刊同人は秋本、天沢、菅谷、鈴木、高野、彦坂、藤田、野沢暎(渡辺の友人で「×」同人)、山本、渡辺の十人。
「凶区」第19号 昭和四十二年(一九六七年)十二月発行
池上 「凶区」には定価や振替口座が印刷されているんですね。でも商業誌ってわけではない。
鶴山 今言った「凶区」創刊までのレジュメは先ほど池上さんがおっしゃった渡辺武信さんの『移動祝祭日 『凶区』へ、そして『凶区』から』を元にしています。三八〇ページの大冊で豊富な図版と詳細な年譜まで付いた「凶区」と六〇年代詩に関する第一級史料です。『移動祝祭日』で渡辺さんは「六八年には『凶区』は(中略)印刷部数も千二百部になった」と書いています。「凶区」は昭和三十九年(一九六四年)四月創刊、四十五年(七〇年)三月終刊ですが約七年間に季刊ペースで二十七冊も刊行された。実売で印刷費用等をまかなえて同人費がかからなかったからです。僕が持っているのは第十九号から二十五号にかけての「凶区」最盛期の四冊です。学生の頃は「凶区」が古本屋のワゴンに積まれていて一冊百円で買えたんです。
池上 吉本隆明 は昭和三十六年(一九六一年)に同人誌「試行」を谷川雁、村上一郎と創刊して、その後吉本の個人誌として平成九年(一九九七年)まで続けました。「試行」も一九八〇年前後には最大部数が七六〇〇部だったといいますから、いま考えると同人誌としてはすごい部数です。「試行」は詩誌ではないですけれど、詩の世界では同人誌が重要なメディアだったということですね。
鶴山 同人誌は戦前からずっと詩の世界の屋台骨です。現代でもそうだろうな。
池上 鮎川信夫たちの『荒地詩集』は荒地出版社から刊行されていますが、あれはどういう位置付けなんですか。
鶴山 詩人たちは印刷製本設備を持っていないので委託出版です。『荒地詩集』は第一巻が早川書房刊で、二冊目以降は早川から独立した伊藤尚志さん設立の荒地出版社から出ています。同人誌「荒地」は同人たちの持ち寄り費用負担でしょうけど『荒地詩集』はわかりません。企画出版だったのかもしれない。
池上 以前取り上げた 長谷川 龍生 ( りゅうせい ) にも声をかけた。長谷川龍生はいわゆる左翼系の詩人だからね。ちょっとびっくりするけど、そういう意図があったんですね。
鶴山 「凶区」創刊は昭和三十九年(一九六四年)で「現代詩手帖」が勢いを増していた時期です。ただ渡辺さんは『移動祝祭日』で「創刊号の刊行と前後して、私たちは「創刊案内」というチラシのようなものをタイプ印刷でつくって、配布したり郵送したりした。それは私たちが『凶区』を従来のような〝内出血的な同人誌の発行方法〟から免れたもの、決して金銭的な利益は期待しないが、自分たちが書くものを読むのに応分の費用を負担することを厭わない読者を持つ自前のメディアにしようとする自負」があったからだと書いています。実際「凶区」は後期になると千部以上を売り上げる小さな商業雑誌規模になった。しかし「詩学」や「現代詩手帖」と並び立つようなメディアにはならなかった。
池上 はい。ぼくの感覚では「凶区」の詩人たちが書いた詩は現代詩だと思うのですけれど、これまでの対話で鶴山さんがおっしゃる「戦後の詩」という意味は理解しました。
鶴山 【表01】は「「荒地」以降の主要同人誌と所属詩人」をまとめたものです。抜けている同人誌や詩人が多くて恐縮ですが詩の世界を主導した雑誌と詩人たちの抜粋です。戦後詩は「荒地」派から始まりますが従軍派の「荒地」世代と戦中派の五〇年代詩人の間に大きな段差があったのは言うまでもありません。「荒地」の鮎川や田村は強靱な個で複雑に膨れあがってゆく戦後社会に対峙することができた。彼らの従軍体験は決定的でありいわば生きながら彼岸に属するような個で戦後社会を冷たく眺め批判し続けました。ただし鮎川・田村らの〝正統戦後詩〟は本質的に継承不可能なものだった。 谷川雁 や 堀川正美 は生活者の個で戦後社会に対峙しようとして押し潰され沈黙していったと言ってよい。
五〇年代詩人と六〇年代詩人の間にも大きな段差があります。近いとわずか三、四歳の差ですが終戦時に中学生で物心ついていた世代と小学生だった世代の違いですね。六〇年代詩人は安保世代で同時代評論を読むと安保が大きな論点になっています。しかし安保が決定的傷になったとは言い難い。六〇年代は前衛の時代で絵画、舞踏、演劇などで未知の表現領域を開拓する 前衛芸術 ( アバンギャルド・アート ) 全盛期でした。映画、テレビ、マンガなどの大衆文化が花開き三種の神器に代表される大量消費社会の始まりでもあった。そんな明るい未来を指向する社会の大きなうねりに乗ったのが「凶区」であり「今夜、きみ/スポーツ・カーに乗って/流星を正面から/顔に刺青できるか、きみは!」(「燃える」)と書いた「ドラムカン」の吉増剛造さんです。今こんな詩は書けない、現れないでしょうね。時代の手触りがクッキリ表れているという意味で〝高度経済詩派〟と呼んだ方がピッタリくる。
七〇年代になると六〇年代詩人たちが有していた向日性が影を潜めます。稲川方人さんは「六〇年代詩の遺風を継ぐ」と書き平出隆さんは評論集『破船のゆくえ』を著しました。『破船のゆくえ』とは堀川正美以降の戦後詩の行方だと言っていい。「遺風」「破船」という単語からわかるように戦後詩や現代詩の 潮流 ( エコール ) は衰弱し始めていた。荒川洋治さんは現代詩を「象牙の塔」だと批判しいちはやく現代詩からの脱却を提唱しました。
池上 なるほどねぇ。確かにこうやって同人誌で括ると現代詩の流れが見えるような気がしますね……。だけど、ぼくもこの表に挙げられている詩人の主な作品は読みましたけれど、詩誌はほとんど見たことがないですね。大学時代に出ていた「麒麟」だけかな。それで「凶区」に話を戻すと、ずっと「凶区」にこだわったのは『移動祝祭日』を書いた渡辺武信だけですよね。
鶴山 「凶区」は本質的に渡辺さんの雑誌だったからです。彼は大学院を含めて十二年間東大に在籍していた。「凶区」には終刊まで学生ノリのお遊び感覚があった。比較的裕福な家庭の子が多かったですしね。同人はしきりに合宿や小旅行を行っています。山本道子さんの実家が軽井沢に別荘を持っていてそこでの合宿が多かった。渡辺さんの実家も軽井沢に別荘を持っていました。また六〇年代は急速に東京一極集中が進んだ時代です。多くの新作映画や美術展、演劇は東京にいなければ見られなかった。風月堂を始めとする喫茶店文化最盛期でもあった。「凶区」同人は驚くべき旺盛さで映画館や芝居小屋に通い喫茶店で議論や情報交換を重ねていた。それは毎号「凶区」巻末に掲載された「凶区日録」を見ればわかります。
「凶区日録」「凶区」第22号 昭和四十三年(一九六八年)十月刊
池上 渡辺武信は「凶区」終刊を機にあまり詩を書かなくなっていきます。その後は建築家として有名になったんですよね。
鶴山 野心的建築家は大規模プロジェクトの設計者を目指しますが渡辺さんは優れたマイホーム建築家になった。そんなところにも渡辺さんの資質が表れています。渡辺さんは「凶区」という〝家〟が可愛くてしかたがない。詩をやめたのは詩を書いて発表する家がなくなったからでしょうね。しかし「凶区」後も詩を書き続けた詩人たちが誰も「凶区」を総括していないのは問題です。
池上 あっ、そうね。マイホーム建築家ね。そういえば中公新書の『住まい方の思想』(一九八三年)は当時話題になりましたよね。ぼくもあの渡辺武信が書いたのかと思って読みましたが、住宅設計のプロとして書いたとても実践的な内容で、いい本でした。
鶴山 僕は「現代詩手帖」で編集の仕事をしていた時に「凶区」特集を組んだんです(昭和六十二年[一九八七年]十月号)。一定の裁量権はありましたが商業誌ですから企画会議を経た特集です。四方田犬彦さんがどこかで「現代詩手帖は戦後詩の追っかけだ」と書いておられましたがある時期までその通りでした。「戦後詩はどこに行くのか」といった特集を組むと売れ行きがよかった。「手帖」誌の講読母胎は戦後詩のファンだったのです。しかしそれも翳っていた。新たな切り口が必要だった。
「現代詩手帖」特集「凶区」 昭和六十二年(一九八七年)九月刊
池上 こんな特集をやっていたんだね。鮎川信夫が亡くなったのが一九八六年でしょ、「現代詩手帖」の「凶区」特集は一九八七年か……ぼくはもうこの頃は現代詩に興味を失っていたんだなぁ。鶴山さんにはわるいけど、立ち読みすらしていなかった(笑)。
鶴山 六〇年代にはすでに猛烈な受験競争が始まっていましたからね。優秀な学生が集まっていたわけだ。この時代の雰囲気を具体的に知りたければ庄司薫さんの『赤頭巾ちゃん気をつけて』や『さよなら快傑黒頭巾』がお勧めです。渡辺さんは庄司さんと同級生で学部生の時に二人でダンスパーティを企画したと『移動祝祭日』で書いています。庄司さんは七〇年安保を背景に小説を書いたわけですがそこまでは地続きだった。
入沢康夫は「『凶区』への手紙」(昭和四十年[一九六五年])で「きみたちは実にうまくできた「事象」だね。きみたちくらい目的性と手段性が野合したグループはない」「きみたちくらい悪がしこく、しかも誠実なグループはない」「ぼくは好んでこんなことを考えてみる。きみたちの一人一人であるところの 単語 ( ・・ ) を使って、きみたちのグループであるところの 作品 ( ・・ ) が成立して、それが『凶区』なのだ、とそして、この 作品 ( ・・ ) は、さしあたって、どうやらきみたちの一人一人が紙に書く作品よりも――「失礼」――一段とよくできているようだ」と書きました。当たっていますけどズバッと厳しいことを書くよね(笑)。
池上 先ほども言いましたけれど、今回、天沢退二郎や鈴木志郎康の詩を読み直しましたが、ぼくにはまったく戦後詩だとは思えない。鶴山さんが「戦後の詩」とおっしゃる意味は理解しているつもりですけれど、やっぱり彼らの作品は現代詩だとぼくは思うんですよね。でも鮎川信夫と吉本隆明の「戦後詩を読む」という対談では鈴木志郎康の「終電車の風景」という詩を戦後詩として取り上げています。改めて「戦後詩」と「現代詩」の区分について、鶴山さんのお考えをもう少し説明していただけますか。
鶴山 正確に言うと〝戦後詩と現代詩のマージ〟です。前にも言いましたが鮎川信夫第一詩集『鮎川信夫詩集 1945―1955』と入沢康夫第一詩集『倖せそれとも不倖せ』はともに昭和三十年(一九五五年)刊です。戦後詩の方が圧倒的に先行していましたが詩集刊行年で言えば戦後詩と現代詩の成立は同時。六〇年代詩人たちはそれらをいっしょくたにして受容した。〝戦後詩〟と〝現代詩〟を区分する認識はなかった。
ただ戦後に入沢・岩成の超難解な詩が現れ現代詩という呼称に新たなニュアンスが加わった。というか暗黙の了解としていつも〝現代詩〟の中核に入沢・岩成がいた。 象徴主義 ( サンボリズム ) からモダニズムを通過した詩人たちは例外なくシュルレアリスムの影響を受けています。絵画を見ればわかりますがシュルレアリスムは現実のデフォルメ、喩化です。現実世界と一定の対応関係がある。しかし入沢・岩成の現代詩にはそれがない。現実には存在しない人やモノや風景が現実として呈示されている。その説明は一切ありません。意図的に読解を拒んでいるわけではなく読む側の認識系を変えなければ理解できない。
それはともかく戦後詩もそれなりに難解だったので、戦後の早い時期から戦後の詩すべてを現代詩と総称し、戦前までの比較的平易な詩すべてを近代詩と呼ぶようになった。わかりやすい二分法です。しかしなにを現代詩と呼ぶのかは時代や詩人によって異なる。僕は〝詩は原理的に内容・形式面でまったく制約のない自由詩であり、戦後の詩は「荒地」派に代表される〝戦後詩〟と入沢・岩成の〝現代詩〟に区分される〟と定義しました。自由詩の中に〝戦後詩〟と〝現代詩〟という戦後特有の二つの詩の 潮流 ( エコール ) があったという定義です。現代書かれている詩だから現代詩だと言うことはできますが戦後の詩人たちは呼称〝現代詩〟にそれまでの現代詩とは違う独自の付加価値を認めてしまっている。
戦後詩と現代詩の二大 潮流 ( エコール ) の定義が曖昧なまま放置されて来たのは八〇年代半ば頃まで戦後詩的社会批判詩がメインストリームだったからでもある。詩史論が今も吉本『戦後詩史論』以降がベースになっている理由です。現代では戦後詩は滅び現代詩が生き残ったといういい加減な言説があったりします。が、同時発生した現代詩だけが無傷のわけがない。世界が複雑化して社会批判詩を書くのが難しくなったので消去法的衰弱で現代詩という呼び名がなんとなく続いているに過ぎない。
もちろん「凶区」の六〇年代からいっけん政治性の薄い現代詩的な詩が現れます。しかしそれは意識的なアンチ戦後詩、アンチ社会批判詩の試みであることが多い。後進世代は戦後詩に影響されながら仮想敵にもしていた。それを強化するために入沢・岩成現代詩の 修辞 ( レトリック ) だけが援用されている。六〇年代詩人たちの狭義の現代詩の受容は部分的。「凶区」の詩人たちの詩が〝戦後詩と現代詩のマージ〟だというのはそういうことです。
■渡辺武信、天沢退二郎、菅谷規矩雄の詩について■
池上 ぼくは「凶区」の詩人では渡辺武信が好きだったんです。都会的な抒情詩で、感覚的に自分の好みに合っていた。渡辺武信と同世代の詩人では、一九六五年に詩集『われら新鮮な旅人』を出した 長田弘 ( おさだひろし ) も好きでした。この二人の詩人には何となく共通するものを感じていたんです。だけど今回『移動祝祭日』を読んでいちばんびっくりしたのは、渡辺武信が長田弘のことを激しく批判していたことです。その批判というのが、文学的な批判というよりも政治的なスタンスの違いに起因する批判なんですよ。これにも驚きました。渡辺武信は菅谷規矩雄の長田弘批判を引用することで、間接的に長田弘を批判しています。
かれの詩作品や批評的文章のあちこちに、安保闘争に言及している箇処は数えきれないほどだが、それでいてかれが闘争過程のどこに・どのようにいたか、いなかったかは、事実のみならず思想態度としても、およそあいまい、不分明である。むろん自己批判のかけらもないし、闘争じたいへの批判もかれの文章にはない。かれのよくいう《無名》なんてものではないのだ。かれじしんの個的な所在、えらびとった場の関係が欠落しているのである。これはかつての全自連のはたした役割、そこでの自らの役割にまったく口をぬぐったまま、学生運動に発言をつづける野口武彦と、どこか共通していないか? そうである。ぼくはあえて推測する――長田弘は全自連のデモのなかにいたのかもしれない。そして六・一五が過ぎるや、とたんに乗りかえて樺美智子や岸上大作を私物化し、《Kという同じ頭文字をもつぼくたちの六十年の死者たち》(『われら新鮮な旅人』)などと、時流に乗った代弁者ぶりを発揮する(もし長田が当時全自連のデモにいたとすれば、それは樺美智子を殺した側にいたことにもなる。この一点だけは、そうではないと長田は証明しておくべきだ。しかし『探究としての詩』一冊を読んでも、この事実さえ確かめようがないのである)。《それが歴史といえるならば、ぼくたちは/むしろためらわず失敗に加担しよう!》(『われら新鮮な旅人』)というのが、長田の荷担の論理か? これを逆用すれば、どんな荷担に失敗しても、それが歴史とはいえないものだから、と弁解して済ますことができようというものだ。
鶴山 うん、そうなんだよね。だけど渡辺さんは心情的左派でデモには参加してたけどブント(共産主義者同盟、日本共産党や日本社会党などの既存左派政党とは距離を置いていた)などで精力的に活動していたわけではない。この世代の詩人から「お前に何がわかるんだ」と批判されるでしょうが六〇年代詩人たちは当時の政治状況と自己の生活を含む政治的立場、そして詩法が揺れ動いていたと思う。
名づける
一九六〇年六月の記憶のために
しかし ぼくたち 間に合うのだろうか
『移動祝祭日』で渡辺さんは彼の詩はもちろん「凶区」の詩人たちの詩の背景に安保闘争があると強調しています。しかし政治家ではなく詩人たちです。彼らは「おれは垂直的人間」「ぼくがたふれたらひとつの直接性がたふれる」と書いた田村や吉本のようには強靱な個で社会に対峙できなかった。飯島耕一のように「巨大な 監視者 に/は 理解 しがた い/ことばを 私有 せよ」と独自の言語的世界も持てなかった。世界に対峙し得る確乎たる思想を確立できずすべてが流動的だった。
池上 詩法的には渡辺武信は戦後詩ですね。「あけてくる朝のかくしている/さけられない希望/それが/ぼくたちの不幸のはじまりだ」なんて鮎川信夫の「死んだ男」の「たとえば霧や/あらゆる階段の跫音のなかから、/遺言執行人が、ぼんやりと姿を現す。/――これがすべての始まりである。」という語り口にそっくりです。
鶴山 そのとおりです。ただ「凶区」時代に渡辺さんの共同体意識がほかの同人たちに与えていた影響は大きい。
池上 しかし『移動祝祭日』はすごい本ですね。「荒地」には田村隆一が書いた『若い荒地』というメモワールがあって、これもとてもいい本ですけれど、『移動祝祭日』には詳細な関連年表とか、資料集としてもきちんとまとめられていて、詩の同人誌の歴史を当事者がこれだけ詳しく書いた本はちょっと見当たりませんね。この時代の証言としても貴重です。
鶴山 作品をちゃんとした形でまとめておきたいという気持ちはわかるけど、渡辺さんらしいお遊び満載の詩集なので初版のまま稀覯本として放置してもよかったかもね。
池上 なるほど。作詞家の松本隆さんは渡辺武信の詩に影響を受けたと言っていますよね。渡辺武信の詩が持っていた都会的な抒情性は、「はっぴいえんど」のセカンドアルバム『風街ろまん』(一九七一年)の歌詞の世界に繋がっていったのかもしれませんね。
鶴山 天沢詩は日常言語的な意味とイメージ連鎖では読み解けませんね。その意味では現代詩的です。しかし現実と完全に関係のない言語世界かというとそうではない。
猫眼石 ( キャッツ・アイ ) の朝を種子のように喰いちらす
その川には 縁 ( ふち ) というものがなかった。夢とうつつの変幻の あわい ( ・・・ ) に馬は初めて水面の上に出て、首をめぐらすまでもなく暗赤色の嶺線をこぼれ出る不在の太陽の腕どもが指し示すままに、深さも奥行きも歴史もない湿地帯のいたるところに川があふれ出し不定型の浸潤をひろげたまま氷結しているのを、みじろぎもせず氷結しているのを馬のまなざしは照らし出していた。しかしこれはいったい〈前〉であるか、〈後〉であるか。馬じたい凝然と氷結しているのか――いまこの馬になりかわって私たちは告げよう、馬を見棄てるべき時がきたと――馬は死んだかって? 何を! 誰だって二度死ねるわけがない――いま馬は二重に不可視であって、馬は誰の目にも見えず馬の目には何も見えぬ、ただ、馬は耳を澄ましているのだ、じっと聴き入ろうとしているのだ、転生の叫び水が氷を穿ってつくる笛の最初のひよめきを。
天沢さんは多作で詩集の数も多く六、七〇年安保時代はさまざまなタイプの詩を書きました。ただ同時刊行された第六、七詩集『取経譚』『譚海』(昭和四十七年[一九七二年])で天沢詩の代名詞となる〝譚〟詩形式(詩法)がハッキリ表れ長篇詩『Les Invisibles 目に見えぬものたち』(第九詩集、五十一年[七六年])以降はほぼ譚詩に固定されます。引用は『Les Invisibles 目に見えぬものたち』最終の「51」章です。
池上 天沢退二郎の譚詩は夢魔的な世界ですけれど、観念的でもありますよね。
鶴山 天沢さんの譚詩は彼の資質と理論の混交だからでしょうね。
賢治の彼岸的文学に魅了されていましたが譚詩理論の中核になったのはフランス文学――中でもモーリス・ブランショの『文学空間』や『来るべき書物』です。ブランショはサルトルの実存主義からジャック・デリダ、ジル・ドゥルーズ、ミシェル・フーコーらのポストモダン哲学全盛期の間に現れた小説家・思想家です。フランスでも日本でも一時期とてもよく読まれていました。非常に乱暴なことを言うとポストモダン哲学のような文学創作神話の 完全解体 ( デコンストラクション ) (根底の不在)ではなくうっすらと 象徴主義 ( サンボリズム ) から続く一種ロマン主義的な創作の可能性を示唆していた。
象徴主義 ( サンボリズム ) がボードレールの 万物照応 ( コレスポンデンス ) (地上の万物は神的世界のそれと対応しているという理論)から始まりランボーの沈黙、マラルメの無(rien リヤン)に至って解体していったことはよく知られています。二十世紀半ばからカフカの小説や自死したパウル・ツェランの詩がより無神論的作品としてポストモダン批評に加わります。杓子定規にポストモダン哲学を援用すると世界はいわば記号の連鎖体でありドゥルーズのリゾーム理論にあるように無数の小突起点(求心点)はあっても世界全体を統御する求心点は不在ということになる。
一般にコミュニケーションは送り手と受け手と、その間の媒介の存在によって成立つ。詩も、書かれることのみならず、読まれることによって初めて作品として成り立つのだが、この場合、書かれること自体に既に読まれることが最初から胚胎されていて、詩は単なるコミュニケーションの手段・媒介ではなく、コミュニケーションそのものである。つまり、ぼくらが詩を書くとき、ぼくらは見えざる不在の読者との間に、奇跡的なやり方で、まさしく けいれん ( ・・・・ ) 的に心をかよわせあう。このことと詩作品とは、目的・手段といった主従関係にあるのではなく、ブランショも指摘したように、イコールであり、同一のものである。そう考えれば、場合によっては、作者の意図する内容が効果的に読者へ《伝達》されるということがあっても、なくても、そのこと自体はどちらでもかまわないことになる。それらをひっくるめて、詩はもっと深層でのコミュニケーションなのだから、そこで、こう少し具体的に、ひとしくぼくらの求めているこの奇蹟的な、けいれん性のミュニケーションを構成し支えている実質は何であろうかと考えてみると、それは一応真実あるいは真理としか名づけようがないもののような気がする。
この〝来るべき書物〟概念は当然のことながら現実の上位審級にあるメタ現実世界に属します。実存固有の作家性を剥ぎ取られた概念だからです。それは作家が認識把握した現実に基づく作品ではなくそれを超越した〝純抽象文学〟として措定されている。池上さんが「天沢は書きたいことがないのに書いているんじゃないか」と指摘なさったのは当然でメタ文学を目指せば作家性はもちろん通常の文学技法も否定される。絶対に表現不可能な真理をそれでも表現しようとすることになる。 書紀行為 ( エクリチュール ) は不可能であるという認識から始まる文学です。それはまた天沢文学では微妙に賢治文学と接続している。
そこは飯田橋の近くとおぼしく、石炭色の高架線も彼方に目でたどることができた。「歩こうじゃないか」「そうさ歩こう」誰からともなく云い出して新宿まで歩くことにした。(中略)私はいつかひとりつめたい坂みちをのぼりかけると、道からいちだん低く石段を下ったところに炭焼き小屋のようなくすぼけた食堂が店をひらいていて、穴ぐらめいた窓からもれる銅色のランプのひかりに吸いこまれるように私はその店へ入って早めの夕食をとることにした。暗い店内に何とか席をとると女の子がだまってメニューをもってきたが、そのメニューはなおさら暗たんとした 銅 ( あかがね ) 色をしていて、そこに書かれた料理名のどんな魚料理そのものよりもひねくった髭様の字体を順々に読んでいると、時しもはげしい眠気におそわれ、もはや居ても立ってもいられなくなった。(中略)
池上 ぼくのザ・バンド論は『ザ・バンド 来たるべきロック』というタイトルで、「来たるべきロック」というのはもちろんブランショの『来るべき書物』から取っているんですよ(笑)。「詩の現存とは、来るべきものである。つまり、それは、未来をこえてやってくるものであり、現にそこにありながら来ることを止めない」(粟津則雄訳)というのがキー概念で、「この表現を借りて言えば、ぼくの考える「来たるべきロック」とは、「未来をこえてやってくるものであり、現にそこにありながら来ることを止めない」音楽のことだ」と書いた。鶴山さんも指摘されたとおり、『来るべき書物』というのはマラルメの「世界は一冊の書物に至るために作られている」の「一冊の書物」のことだと思われがちだけど、そうじゃないんですよね。だけどブランショの評論はおもしろいけれど、ブランショの小説は退屈(笑)。天沢退二郎の評論と詩にも同じような傾向があるように思うんですけどね。
鶴山 六〇年代から七〇年代にかけて詩人たち中心の吉本隆明シンパグループがありました。菅谷さんはその一人だった。彼の思想基盤は吉本と埴谷雄高です。言いにくいですが先行する他者の思想をいわば丸呑みしてその延長上で文学を始めるような作家は創作者に向いていない。渡辺さんは『移動祝祭日』で清水昶の「今でも菅谷規矩雄の死の源は何処か間違った吉本言語論に、その端を発しているような気がする」という言葉を引用しています。その通りだと思う。菅谷さんの音韻論は「手帖」誌での連載中に読みましたがあそこまで愚直に意味と音韻と日本語成立探求を混交させれば収拾がつかなくなる。渡辺さんは菅谷さんの死は緩慢な自殺だったと書いていますがあれはどういうことかご存知ですか。
池上 確か全共闘運動にコミットして大学の授業再開に応じなかったために、菅谷規矩雄はいわゆる造反教官として七〇年代初め頃に東京都立大学を解雇されたんですよね。そういった鬱屈も関係してか、晩年はアルコール依存症のような状態だったと読んだことがあります。
鶴山 菅谷さんの言語学者としての表現なのか、もしかしてアルコールの影響があったのかわかりませんが、彼は晩年に実に奇妙な詩を書いています。
詩集としては刊行されなかった『Zodiac Series』の〔サンスイ〕という詩の冒頭と最終部です。『六月のオブセッション』や刊行された最後の詩集『散文的な予感』はあまり評価できませんが『Zodiac Series』の詩篇は迫力がある。繰り返される「オトロエル」「死ねない」から菅谷さんの肉体と精神が衰弱し死を予感した詩だと読める。しかしこの精神の解体に連動したような言語的解体的詩には魅力がある。誰も真似できず継承もできないでしょうけど。
池上 山本陽子の「遙るかする、するするながらⅢ」(一九七〇年)という詩に近い感じがします。この作品は「遥るかする//純めみ、くるっく/くるっく/くるっくぱちり、とおとおみひらきとおり むく/ふくらみとおりながら、//わおみひらきとおり、くらっ/らっく/らっく/くらっく とおり、かいてん/りらっく/りらっく」というように始まる詩で、全篇ほぼ意味は通らないんですが、音韻や表記の仕方に一種異様な迫力と魅力があって、ぼくはある意味この作品は現代詩の極北だと思っているんですけどね。だけど、同時に非常に危険な行為でもあって、詩的言語の限界を越えて、もう言語表現としては崩壊してしまっている。その気味わるさは菅谷規矩雄の『Zodiac Series』にも感じますね。
鶴山 ああそうですね。岩成達也さんが山本陽子詩を高く評価しています。池上さんも岩成さんも勘がいいね。菅谷さんは「凶区」の中で最も戦後詩人らしい詩人だったわけですが晩年書いたのは極詩だった。極私(詩)人は鈴木志郎康だけではない。「凶区」詩人たちの相互影響の根深さです。
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