町田たけし(二代目柳家三亀松)
――師匠の初舞台というか初高座はいくつのころなんですか? ●学校一年の時分だから、六つのときですか。場所は浅草の江戸大盛館。その当時ここは演芸会のメッカですよ。いまの雷門助六さんが五郎で出ていたり、先代の(神田)ろ山、うちの師匠もかけ出しで出ていました。 親父が奇術師で、その前にちょこちょこと踊ったりしました。芸ごとは踊りが最初で、それからバイオリン、三味線と習っていたんです。バイオリンをやめた理由は、師匠に「亀松(現・三亀松)、お前バイオリンにするのか三味線にするのか?」ときかれた。三亀松の弟子なのにバイオリンにしたら、私しゃ石田一松の弟子に鞍替えしなきゃならない。それで三味線の方を取った。初めのころは着物がなくて、洋服着て高座に上がったけれど、おかしな格好だったでしょうねェ。 落語協会に籍を置いたのは昭和11年。三亀松に正式に弟子入したのが29年で、5月に亀松の名前をもらって、高座に戻ったわけなんです。黒門町(故桂文楽)の一門に入れてもらった。その時、黒門町の身内になったんだから、失敗のないようにしようと思いましたね。
趙相元・町田たけし 曲藝。趙相元の奇想天外な奇術と、その息町田たけし少年の三絃バイオリン曲弾、舞踊等は観る者の眼を瞠さずには置かぬ至藝の極。派手な短時間ショウとして推薦。
浮き世節(三味線漫談)の柳家亀松は、中華料理を食っていると「あのとき芸を捨てて中国籍のままで通したら、今ごろはナントカ飯店ぐらい経営して、実業家でいられたかも知れねえな」と思うことがある。 亀松は戦前、三代目小さんのヒザガワリぐらいを勤めた中国人奇術師・趙相元(ちょうそうげん)のむすこである。母親はむろん日本人なんだが、中国籍で育った。大正十一年、浅草芝崎町の生まれ。父の趙さんは大正七年に来日して寄席などに出演、楽屋で何か話しかけられると「ヘエ、アタシ二十四歳ヨ」で通したという逸話が残っている。趙さんは、亀松が十八のときなくなった。 四歳ぐらいから、父親にくっついて舞台に出た。巡業などの関係で小学校は三年でストップ。そのかわり三味線、踊りなど日本の芸を修業、柳家三亀松に私淑してその門にはいり、今ではオヤジといえば三亀松のことである。まわりは日本の芸人だし、浅草の生まれだし、自分は根っからの日本人のつもりだったが、中国籍なばっかりにいろいろと苦労した。 戦前は銀座から東、築地方面へは立ち入り禁止だったし、横浜・伊勢佐木町の花月劇場へ行くのに、何時何分に家を出て、どこの停留所で市電に乗って、東京駅へ何時何分着、何時何分発の電車で横浜へ行って、どの道を通って楽屋入り――と詳細な届けを警察に出さねばならなかった。好きな女ができて結婚したいと思っても、中国籍とわかると、こわれた。 だから芸の次に、彼の頭の中を占めていたのは、いかにして日本籍になるかということだった。戦争が終わる。三国人の天下がきた。それでも修業に夢中になっている彼に、仲間の芸人のあるものは「バカだね君は――そのままでいりゃ金もうけのしほうだいじゃないか」と教えてくれたが「オレの気持ちはわからない」とかなしかった。 あらゆる手ずるを求めて奔走して、とうとう昭和二十六年に晴れて日本人・町田武になれた。いいことは続くもので、当時、左の眼球をヒョンなことから痛めて、治療に行っていた日赤椎名町診療所の看護婦さんと愛が芽ばえ、結婚した。現夫人の純江さんである。「すぐ腹が立ってポンポンけんかしちまうし、可と思うとバカに引っ込み思案になったりして典型的な江戸っ子だと思ってるわけですが、ことに修業についちゃあネバリ強かった。やっぱり中国人の血もちっとは流れてるんですね」 昭和三十六年五月、亀松は亡き父の二十三回忌法要を盛大に営んだ。豊島区椎名町の家には、趙さんと三亀松、二人のオヤジの写真が掲げられている。
鮮やかな三味線の曲弾きと、粋な都々逸、さのさ、新内などを聴かせてくれた二代目・柳家三亀松師匠が、亡くなった。昨年12月に倒れてからの療養の甲斐もなく、本年8月に6歳で永眠された。正楽師と同様に、実子が同じ世界に居て、寄席の高座で活躍している。昭和52年に父である三亀松師に入門して、昭和63年にひとり高座を務めるようになるまで約10年間、父と一緒に高座で三味線を弾いた柳家亀太郎さんが、その人。子として、弟子として、想い出を語っていただこう。――師匠から離れてひとり高座になって、もう随分になりますが、当初はどんなお気持ちでしたか。「噺家の場合は、前座の頃から一人で高座に上がりますけど、私は約10年間、いつも親父と一緒でしたから、緊張しましたね。今までのようにお客様に受けなくちゃいけないのに、受けない……。弱っちゃいましたね(笑)。親父の偉大さが身に滲みました」――お宅での三亀松師匠は、どんな方だったのでしょうか。「どちらかというと恐い人だったですね。親子だから仕方がないんですが、 子供としてのしくじりが、弟子としてのしくじりにもなる訳だし……」 ――われ〳〵楽屋仲間にとっては、三亀松師匠といえば、例の「おわァん」 という独特の挨拶が忘れられないのですが。「あれは「ご苦労さん」という言葉が短くなって「おわァん」になって(笑)。アニ以前、浅草演芸ホールの楽屋に入ってきた(古今亭)菊丸兄さんが、先代の志ん馬師匠に「おわァん」て挨拶して、大しくじり(笑)。先輩に向って、 なんだその挨拶は!って小言になっちゃって。その後、私が菊丸兄さんから叱られました。お前の親父さんのお陰で志ん馬師匠をしくじったって (笑)」――お客様にはお気付きでない方が多かったと思いますが、師匠は髪を付けてらっしゃったんですよね。「池袋演芸場が新装される前のことですが、雨の降っている日で、傘をさしたまま転んでしまったそうです。まわりに人がいて恥しいので慌てて立ち上がって、演芸場の楽屋に入る。いつもは見ないのに、楽屋の鏡を見たら、無いんですって、頭の上に(笑)。楽屋のみんなは畳に座ってるから、まだ立ったままの親父の頭の上には気付かない。すぐに、さっき転んだ場所まで戻ってみると道に落ちてました、誰にも拾われずに(笑)。慌てて頭に付けたら、雨の雫がダラ〳〵って」――いずれは師匠のお名前を襲名されることを考えていらっしゃいますか。「こればっかりは自分一人で決められることじゃありませんからね。少しでも親父の芸に近づけるよう精進して、 まわりの方々から認めていただけるよう頑張ります」 弟子として、師匠の名前を継げるようになることが、亡くなった師匠への何よりの供養になることでしょう。 亀太郎さん、応援していますヨ!