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1つの歌を作る日本の集団創作ゲーム - Rinto
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【文学】「連歌(れんが)」って何?みんなで1つの歌を作る日本の集団創作ゲーム

節操なく次々と句を続ければいいわけではありません。同じような内容を繰り替えすことは基本的にNG。これを「輪廻」と呼びます。とはいえ連歌に厳密な思想や内容はありません。連歌の醍醐味は作り手になることにあります。みんなでワイワイ集まって騒ぎながら、なるほどそう来たか、では次は……と頭をひねって遊ぶ楽しさは詠み手しか味わえません。執筆によって記された記録はあくまでもただのプロセス。想像するとワクワクしませんか?

連歌の歴史をご紹介!

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さて、和歌や俳句といった日本の短詩文化の中でもあまり有名ではない「連歌」。チームプレーの結晶であるこの詩ですが、どんな時代にどんな人びとによって育まれたのでしょうか?和歌は殿上人をはじめとした貴族たちが詠み交わした恋の歌でした。しかし連歌を進歩させたのは意外なことに、宮中の皇族でも貴族でもなく、武士や庶民だったのです。そして連歌が発展した先に待っていたものとは。連歌の歴史をたどりましょう。

『古事記』にはじまる連歌の世界

連歌の起源は『古事記』にまでさかのぼります。ヤマトタケルノミコトが東征でやって来た、都からはるか遠くの甲斐国酒折(現在の山梨県甲府市)で、こんなことをつぶやきました。

この唱和が日本最初の連歌と言われています。平安時代の貴族社会でこの遊びは少しずつ発展。平安時代にはまだ、前半部を詠んだあとに後半部を別の人が詠むことを楽しむシンプルな遊びでした。しかし意外なことに、連歌が本格的に発展したのは京都から離れた東国においてです。

政治の中心は東に移っていきます。武家の人びとの中で連歌は教養、そして娯楽として発展。鎌倉時代中期、長連歌(ちょうれんが)の形式が確立されました。和歌の文化は宮中御所の貴族たちがつちかったものでしたが、さて連歌が発展したのにはどんな背景があるのでしょうか?

鎌倉時代、室町時代に全盛期!

連歌が最盛期を迎えた南北朝時代、室町時代。この時代には「講(こう)」という文化が流行していました。これは信仰を共有するコミュニティのことです。法華講(法華経好きのコミュニティ)、えびす講(商売繁盛を祈願しての講)、天神講などが盛んになります。

和歌もいいけど時代は連歌だ!と大フィーバー。能楽と並び、連歌は中世から近世の日本を語るにあたって欠かせない文化でした。戦国時代にも連歌は必須教養として、戦国武将たちの間で愛されていたのです。14世紀に成立した連歌の歌集『菟玖波集(つくばしゅう)』には、武家の人びとが詠んだ連歌が多く収録されています。頭脳戦の連携プレーが試される連歌は、エキサイティングな遊戯として楽しまれていました。

江戸時代、松尾芭蕉を産んだ俳諧連歌。そして衰退へ

戦の時代が終わり太平の世が訪れます。江戸時代には「俳諧連歌(はいかいれんが)」が発展しました。これは戦国時代にすでにはじまっていた文化運動。宮中や上流階級のものだった雅な文化を、庶民のみんなで楽しもう!というコンセプトで進歩させたものが俳諧連歌です。「俳諧(はいかい)連歌」は歌の中でも面白さやおかしさを重視したバージョン。江戸時代には俳諧連歌が主に発展しました。

俳諧(はいかい)では、それまでの連歌や和歌で避けられていた俗語、漢語を積極的に使用。雅な世界を離れ、日常やエロも詠み込んだりと改革が進みました。そんな中で革命者があらわれます。あの松尾芭蕉です。芭蕉は滑稽さを含めながら、芸術的に高度な俳諧を成立させます。最終的には「かるみ」の境地に達しました。日本全国をめぐっての紀行文『おくのほそ道』が世界的にも有名です。

しかしこの時代を境に、集団ゲームの連歌自体はそこまで発展しなくなりました。連歌の冒頭「発句」だけでもいいじゃない!という見解のもと、発句のみで遊ぶのがメインになっていったのです。明治以降この発句は「俳句」に成長します。この頃、正岡子規による俳句の改革運動の中で連歌自体は廃れていってしまいました。しかし私たちになじみ深い五・七・五の短く気持ちいいあのリズムは、連歌の文化が育てたものだったのです。

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